家康の人生を変えた「桶狭間の合戦」
人には多かれ少なかれ、その生涯を左右した「人生のターニングポイント」がある。とりわけ戦国期の武将たちにとっては、現在のわれわれとはとても比較ができないほど、たびたび過酷な岐路に立たされていた。判断を誤って、一族が滅亡するようなこともまれではなかった。家康の場合はとりわけその前半生において、そのような危機に直面する場面が際立っている。
最初の大きな岐路となったのは有名な桶狭間の合戦であった。永禄3年(1560)5月19日に今川義元が織田信長に討たれたことによって、元康は今川氏のくびきから解放され、自立への第一歩を踏み出すことが可能になったからである。
そもそも、2万5000人ともいわれる大軍を率いたこの時の義元の出馬は、どのような目的を持ったものとみるべきであろうか。
かつては衰退した足利将軍家に取って代わろうとしたとする上洛説が採られることも多かったが、現在ではそれは否定され、三河・尾張国境地帯安定化説と尾張制圧説とにほぼ絞られたといってよいだろう。最近では前者の説を採る研究者が多い。
しかしながら、筆者はこの時の義元出馬の目的はあえて1つに絞るのではなく、段階的に3つに分け、総合的にとらえる方がよいのではないかと考えている。
第1は、三河支配の安定化を図るということである。天文末年から弘治年間にかけて、三河各地で今川氏への叛逆が頻発するという状況があった。義元は息子の氏真に家督を譲って駿河・遠江の支配を委ね、三河支配に専念する態勢を作っていたが、さらに自ら出馬することによってこの危機に対応しようとしたのである。
第2は、すでに今川氏が押さえていた尾張の鳴海城・大高城などをしっかりと確保することである。それによって三河支配をより安定化するとともに、さらに信長との対決を見据えた橋頭堡(きょうとうほ)にするという意味があった。
第3は、2万5000人ともいわれる大軍を率いての出馬であり、戦況の推移如何によっては清須城での信長との対決をめざし、信秀以来の織田氏との抗争に決着をつけることである。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。