2023年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公徳川家康(松本潤)は、今川氏の人質だったにもかかわらず、多くの苦難や危機を乗り越えて天下人の座まで上り詰める。波乱の人生を追った『徳川家康の決断』(中公新書)を著した、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが分析した、生誕から人質時代、「桶狭間の合戦」までの歩みとは――。
運も味方にして乗り越えてきた
徳川家康の生涯を振り返ってみると、当時としてはまれにみる数え年で75歳(満では73歳)という長寿を全うしており、しかも大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、後顧の憂いなく、結果的に260年余りにわたって続くことになる幕藩体制の基礎をしっかりと築いたうえでの大往生であったから、さぞかし満足がいく生涯だったというようにみられるであろう。
しかしながら、その生涯は決して平穏なものではなく、幾多の苦難や危機を乗り越えて、最終的に到達した天下人の座であった。
変転極まりない戦国の世にあって、東に今川氏、西に織田氏という大名勢力に挟まれて、弱小勢力であった家康が前途を切り拓いていくことは、並大抵のことではなかった。
その時々で最良の選択をしたかにみえて、実際には判断を誤って危機に陥るようなこともあった。実力だけではどうしようもなく、運も味方にして幾多の危機を乗り越えてきたというのが、偽らざる実情であった。
天文11年(1542)12月26日、三河国の岡崎城(愛知県岡崎市)内で1人の男児が誕生した。幼名は竹千代、のちの徳川家康である。父は松平広忠で17歳(数え年。以下同様)、母は三河国苅屋城の水野忠政の娘於大(おだい)15歳であった。
竹千代が誕生した頃の松平氏は、三河国内の国衆で、しかも弱小な国衆であった。国衆とは一郡ないし数郡規模の所領を有し、当主と一門・家臣からなる「家中」を構成し、自らの領域については一円的な支配を行なっていた武将をいう。
しかしながら、戦国の世にあっては独力で自立を続けることはむつかしく、戦国大名の傘下に入って家の存続を図ろうとするものが多かった。