徳川家康像(提供:PhotoAC)
2023年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公徳川家康(松本潤)は、今川氏の人質だったにもかかわらず、多くの苦難や危機を乗り越えて天下人の座まで上り詰める。波乱の人生を追った『徳川家康の決断』(中公新書)を著した、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが分析した、「桶狭間の合戦」で今川氏を見限った家康が、織田信長と同盟を結ぶまでの経緯とは――。

〈前編〉からつづく

織田軍の勝因には数多の説

信長が桶狭間の合戦時、義元との決戦の場に動員できた兵力は、わずか2000人程度とみられている。この寡兵の織田軍が大軍の今川軍を破り、どうして義元の首級をあげることができたのか、これまで幾多の説が唱えられてきた。

陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』で唱えられて以来信じられてきたのは、いわば迂回奇襲説とでもいうべきもので、これが長年にわたる通説であった。すなわち、織田軍は善照寺砦から相原方面へと迂回して太子ヶ根に至り、そこから窪地に展開していた義元本陣を急襲したというものであった。

これに対して、太田牛一による『信長公記』をあらためて読み直し、この通説を批判する正面攻撃説が提起された。すなわち、義元が休息していたのは桶狭間山であり、善照寺砦の信長とは真っ正面から対決することになった。信長はそこから中島砦に移り、さらに東に向かって戦ったわけで、堂々たる正面攻撃であったというのである。

この正面攻撃説は次第に受け入れられるようになっていったが、ただその場合、寡兵の織田軍がどのようにして桶狭間山にとりつき、勝利を得ることができたのかについては、なお疑問点として残された。そのため、いろいろな見方が提起されることになったが、いずれも十分に納得できるものではなかった。