今川氏を見限る決断

永禄4年(1561)に入ると、事態は大きく転換することになった。この年、元康は織田信長と和睦して領土協定を結んだのである。

今川氏を見限り、織田氏との連携に踏み切ったのであるから、元康にとっては大きな決断であった。

なお、これまでの通説では、永禄5年正月に元康は清須城に赴き、信長と会見して盟約を結んだといわれてきた。しかしながら、現在ではそのような「清須同盟」はなかったということで、研究者の間ではほぼ一致している。

元康と信長との同盟は、西三河から東三河へと領国を拡大しようとする元康と、美濃の斎藤氏への攻勢を強めようとする信長と、両者の思惑が一致したことによる領土協定の締結であった。

この両者の同盟関係は、戦国期の同盟としては珍しく、信長が本能寺で討たれるまで、揺らぐことなく続いたのであった。

 

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。