桶狭間古戦場公園(提供:PhotoAC)

勝敗を分けたきっかけ

ところが最近、この信長の勝因について、かなり説得力のある新説が提起された(服部英雄「桶狭間合戦考」)。そこでは、桶狭間合戦を桶狭間山での局地戦ではなく、伊勢湾北部の制海権に関わる総力戦としてとらえ直すとする海からの視点もさることながら、合戦当日の降雹(こうひょう)・氷雨(ひさめ)という気象条件が、両軍の勝敗の帰趨を左右したことが明らかにされている。

すなわち、5月19日の当日、今川義元は沓掛城を出て大高城方面へと軍を進めたが、丸根・鷲津の両砦を落としたとの知らせに気をよくしながら、昼近くに桶狭間山に上がって人馬を休め、昼食となった。大半は露天で展開・布陣し、朝から暑い日であったため、休息で甲冑も脱いでいたのではないかとみられている。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

ところが、急に天候が激変し、積乱雲の急発達による激しい雷雨となった。しかも降雹をともなった氷雨となり、気温は急速に低下した。氷雨に濡れそぼった兵士たちのかなりの者は低体温症になり、運動能力は激減した。火縄銃なども、火薬が湿って使えなくなった。

他方、東海道筋を進撃してきた織田軍も、同時期に決戦前の昼食を取っていた。ただし、丹下・善照寺・中島などの砦にいたため、屋根があって氷雨を避けることができた。そして、『信長公記』によれば、「空が晴れるのをご覧になって、信長は鑓をおっ取って大音声をあげ、すわ、かかれかかれと仰せられ」、おそらくは鉄砲隊が火蓋を切って義元の本陣を突いたのである。

今川方は鉄砲が使えず、義元の塗輿(ぬりこし)も捨てて逃げ散るというような総崩れとなった。義元の旗本部隊(直属軍)も、最初は300騎ほどであったが、氷雨でずぶ濡れとなった兵士たちは次第に切り崩され、ついに義元の討死となった。

まさに天が味方になった信長の勝利であった。これまでも突然の豪雨については言及されてきたが、今回の新説はそれが降雹・氷雨であったことを明らかにしたことで、説得力を増すことになったといえるだろう。