当時の家康は、大高城への兵粮入れを任された
松平元康(徳川家康)はこの合戦において、今川義元から大高城に兵粮(ひょうろう)を入れるよう命じられ、見事それに成功した。ところがこれについても、今回新説が出された(服部「桶狭間合戦考」)。これまでは、兵粮の搬入は5月18日夜に陸路によって行なわれたとみられてきたが、19日早朝に海路からであったというのである。
すなわち、今川方が押さえていた鳴海城や大高城は、海路から物資や兵員を搬入する海城であった。大高城には軍船が常時停泊しており、その機能を強化するため、合戦の前年の永禄2年(1559)10月には、守将を朝比奈氏から鵜殿氏に代えていた。鵜殿氏は熊野の出身で、熊野水軍の卓越した技術が伝承されていたからである。
元康が大高城兵粮入れを行なう必要があったのは、陸路が織田方に制圧され、包囲されていたからである。兵粮入れにともなう軍事行動であるから、兵粮入れと丸根・鷲津両砦攻めは並行して同時に行なわれた。
その際、潮汐が大きく関係していた。夜明けから午前8時までが、大高城に接近するうえで有利な流れがあった。こうして、早朝に三河水軍が元康の指揮のもと、海から大高城への兵粮搬入に成功し、あわせて船に乗っていた兵員が丸根・鷲津を襲撃した、というのである。
この新説は魅力的な仮説ではあるが、なお検討すべき余地も多いように思われる。まず文献史料的には陸路となっており、海路とするような史料は見当たらない。また、海路兵粮入れを行なったという三河水軍など果たしてあったのか、あったとすればどのような実態のものだったのか。
さらに、当時の元康にそのような三河水軍を指揮するだけの経験や力量があったのかどうか、などである。それゆえ、筆者は現段階では、大高城への兵粮入れはやはり陸路であったとしておきたい。