今川氏の撤退で、家臣団の再結集を図る
いずれにしても、元康が義元の本陣近くにおらず、大高城に入って兵を休めていたのは幸いであった。その日の夕方近くに母方の伯父の水野信元から使者が送られてきて、織田勢が来襲する前に城から立ち退くようにとの勧めがあったという。
元康はさらに情報を確認した後、その日の夜半に大高城を出て松平氏の菩提寺である大樹寺に向かい、今川勢が退去するのを待って、23日に岡崎城に入った。人質として駿府に送られたのが天文18年(1549)11月のことであったから、10年半ぶりの帰城であった。元康は19歳になっていた。
岡崎城に入った松平元康は駿府には戻ることなく、この後、岡崎城を拠点として領国支配を進めていくことになった。
桶狭間の合戦後、今川方の撤退にともない、尾張の諸城は大高城・沓掛城をはじめ、たちどころに織田方が接収するところとなった。
西三河でも岡崎城をはじめ今川方は撤退しており、知立城・重原城なども同様であった。元康は松平家臣団の再結集を図るとともに、まずは西三河の制圧に乗り出したが、今川方の撤退が早かったこともあり、比較的順調に進んだ。