パンクは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか

一度、やはりメロコアのバンドをやっていた高校の同級生を介して、メンバーのひとりと学食の同じテーブルでご飯を食べたことがある。むこうは絶対に覚えていないと思うが、まるで有名人と一緒に過ごしていたみたいで、僕にとっては一方的に良い思い出となっている。

そのときは、「パンクは日本語で歌うべきか/英語で歌うべきか」という、まるで内田裕也と松本隆による「日本語ロック論争」を再演するようなテーマで、トータルファットのメンバーと僕の同級生が熱い議論を交わしていた。

『学校するからだ』(著:矢野利裕/晶文社)

同級生のほうは、「日本語の抒情(じょじょう)性をパンクに持ち込むのだ」という趣旨で、日本語パンクの可能性を語っており(彼は当時、ジャパハリネットが好きだった)、一方のトータルファットのほうは、Sum41やblink182といった海外のバンドの固有名を列挙しながら、メロコアの魅力を英語のまま日本で打ち出すことの意義を語っていた。同じ大学付属の姉妹校は、それぞれ日本語詞派/英語詞派として、微妙に対抗心を燃やしていたのだ。

議論としては、どちらもそれなりに説得力はあったと思うが、少なくともいまから振り返ると、それから長いあいだ音楽に対する情熱を失わずにバンドを続けていたのが、英語詞派のトータルファットのほうだったことは間違いない。いまでも彼ら(さらに言えば、その後輩バンドのグッドモーニングアメリカやビッグ・ママ)の活躍を見かけると、情熱を失わずに継続することの強さを感じる。