人とのえにしは、空気のようにわたしをとりまいている。日頃、意識することはない。

念のために抽出しのなかの手紙を一日かけて見る。『わが人生の案内人』にも書いたが、昭和の軍事史を調べるにあたり、20年以上の親交を持つことになったのが元陸軍中将・遠藤三郎氏で、ご自宅には取材のために日参している。遠藤氏は「久枝さん」と手紙の冒頭に書いている。二男一女の末娘がわたしとおないどしだった。

1963年、会社づとめをやめた。心臓手術を受け、母と弟の人生の責任をおう人間として、命ながらえたとき、わたしは孤立無援の病気もち人間であった。離婚もしていた。

石川達三さんのはがきがある。

「婦人記者の引退は平凡な日常的な事ですが、あなたの場合だけは惜しいと思っています。天は二物を与えず、今後はお宅で静養しながら何か自分の仕事をなさったら如何ですか。その事に期待しませう。元気になったらふらっと遊びに来て下さい。いつでも歓迎します」

1963年1月25日夜、松本清張氏の最終原稿をもって共同印刷へ向かったわたしは、門を入ったところで失神した。

ひどい心臓喘息が起きた。わたしは人生に絶望していたと思う。この夜を最後に、つとめをやめた。

定時制高校1年、早稲田大学第二文学部4年、18歳でつとめてからの5年間、わたしは経理の事務員であった。その後、9年間、『婦人公論』の編集部員として働いた。わたしはその仕事を愛していた。

退職金をもとに家を建て直し、わたしは大家になった。退職のあいさつをはがきで出し、広津和郎、平林たい子、曽野綾子諸氏など、縁のあった人たちから、はげましの手紙がとどいた。その一通が石川達三氏である。

氏のご長女、希衣子さん(結婚して竹内姓)とこの7、8年とても親しくする縁ができ、わたしは誰も知らない石川さんのはがきを取り出して見せた。「涙が出そうなので、言いませんでした。父はやさしい人でした」と返事をもらった。私信はやたらに公開してはならない。いわば希衣子さんの暗黙の承認を得てここに書いた。