1988年12月25日、昭和天皇重態のニュースがつづいて、有名人の結婚式も延期という事態になった。わたしは沖縄へ行くことにし、手配した。

その日、大岡先生が人間ドックの途中で脳梗塞を起こされ、亡くなったという。すぐお別れに行った。和室のふとんに先生はいらした。「まだ温いんです。さわってごらんなさい」と夫人は言われた。看護師の手許が狂ったのか、左頬に二筋、血色の傷があった。ふれるなどできはしなかった。

大岡先生は『俘虜記』以来の愛読書の作家であり、熱を上げたわたしの20代がある。わたしの人の縁はまずその人に惚れ込むところからはじまるようだ。大岡先生との縁は、わたしに「生きていていい」の自信をもたらした。ヨーロッパ旅行のお土産の香水のなかからわたしが選んだのは、Ma Griffe、ずっと使うことになった。

会社をやめ、榊原仟先生ご夫妻のほかは完全に消えたわたしの約10年があったと思う。完全黙秘の仕事に徹することができたのは、途中に二度目の心臓手術があったこともある。

五味川さんの助手になって間もなく、氏から内心を吐露する手紙をもらった。

「あしたは8月13日、厭な日です。
人間が死に獣が生きた日です。
ぼくには人間の復権が必要だとあなたはお書きになった。
ぼくはしかし、復権なんか望みません。
1943年と45年を歴史が持つかぎり、
そんなことはできっこないことですから」

43年に「特殊工人」中国人の斬首刑に立ちあい、45年、ソ満国境の全滅部隊で生きのび、妻子の待つ鞍山に帰るべく、敗残兵のリーダーとなって、前途をはばむ者に容赦ない銃撃をくわえた。五味川さんは戦争をやる国家を憎みながら、わが手を汚す血を許せなかったと思う。

最後には娘さんとその母、つまり最初の結婚の妻子と暮らした。咽頭のガンで声を失っておられた。一人娘の郁子さんに「お前が最後のおんなだ」と言われたという。1995年3月8日、79歳になる一週間前に去ってゆかれた。

2022年11月18日、ドウス昌代さんが亡くなった。夫のピーター教授は、その前に逝かれたという。すぐれたノンフィクション作家の退場に、わたしは打ちのめされている。

人間模様という言葉がある。誰でもわが人生をふりかえれば、人の知らないひそやかな感情が浮きあがってくる。それが人生ではないか。

わたしが幼かった日、通りかかった老人がわたしを見て、「この子には色難の相がある」と母に言ったという。ふりかえって「色難」といえる人生は生きてこなかったと思っている。「人は人、われはわれ」なのか。