祐子師匠のご自宅で。ここが稽古場でもある

私も浪花節になりてえ

小そめ 小柳師匠と祐子師匠は、みっちり稽古したあとで「お茶しようか」となる。そのお茶の時間のおしゃべりを聞くのが楽しかったですね。おふたりとも、浪曲の勃興期からご存じなわけで。

祐子 私が17歳で入門したころは、浪曲は浪花節って言ったんだ。もっと前、子どものときは語りと言ったの。早く言えば門付けだね。三味線の代わりに法螺貝で「デロレーン、デロレーン」って。これが好きで、近所にくるとくっついてったね。

小そめ 祭文語りは浪曲の原型のひとつと言われて、話にはよく聞きますけど、それを生で見たことがある人はいまや祐子師匠くらいなんでしょうね。

祐子 私は茨城県の笠間の山ん中で生まれただろ。実家は貧乏のぼうの字もないほど貧しかったから、尋常小学校を出ると呉服店に奉公に出されたの。そこの隣がレコード屋。子守りしてると、店先から浪花節が聴こえてきて。

小そめ いまでいうヒット曲ですからね。

祐子 あのころは浪花節が一番人気があった。だから親に「私も浪花節になりてえ」って言ったら、そんなものになれるわけない、東京へなんてとんでもないって大反対されたけど、最後は「好きにしろ」って折れてくれた。それで奉公で貯めておいたお金を持って、虎造さんの家に行ったの。

小そめ 「清水次郎長伝」で人気の、二代目廣澤虎造ですね。いまと違って、当時は有名人の住所が本に載ってましたからね。

祐子 そしたら「うちは女の弟子はとらないよ」って女中さんに断られちゃった。でもどうしてもなりたくて、事務所(浪曲専門の興行社)に頼んだら、女の師匠がいいだろうってことで紹介されたのが、鈴木照子師匠。

小そめ 当時、天才少女として人気のあった照子師匠は、祐子師匠より年下だったんですよね。

祐子 3つ下だよ。だけど芸で人の上に立つだけのことはある。利口な人で、人柄が穏やかでね。いまも浅草に出たときは、師匠の墓参りします。