小そめ 年季が明けるまでは、内弟子生活が当たり前だったんですか。

祐子 そうだね。私ははじめてとった女の弟子だったから、先生も、先生のお母さんも優しくしてくれた。一つ屋根の下、それで焼き餅焼いちゃう人がいたんだ。目の敵にされてね。髪を引っ張られたり、「お前は馬鹿だ」ってぶたれたり。ほかにも悔しいことはいっぱいあった。

小そめ それでも翌年には、浪曲師として初舞台を踏まれて。師匠は最初、浪曲師としてデビューしているんですよね。

祐子 鈴木照千代っていう名前をもらったけど、結局私の声はいい声じゃなかった。己を知らなくて、ただ浪花節が好きで弟子に入ったんだもん。お母さんから「その声は金にならない。曲師になりなさい」って言われた。

小そめ それで転向して、今度は三味線を修業して、修業して。

祐子 芸を覚えるんだから、女中奉公よりつらいよ。なにくそーって思いながら頑張った。いまとなってはお母さんに感謝です。

小そめ 曲師は数も多くないし、どんな浪曲師にも合わせなければいけない。たとえば関西節の私は節(歌うような部分)が多いので、よけいに師匠の三味線に助けられる部分が多いです。

祐子 一座が5人とすると、4人みんな音の高低が違う。ちょっとでも合わないと、睨みつけられるしね。でもなにごとも経験。経験は財産だから。

小そめ ちなみに師匠は当時、大変おモテになったとか。(笑)

祐子 器量はこんなんだけど、私はニコニコ明るかったから。そしたら兄弟子ふたりから惚れられた。ひとりは手帳にびっしり私への思いが書いてあって、「わが愛しきりよ子(本名)様」だって(笑)。もうひとりからは観音様(浅草寺)に呼び出されて、「一緒になってくれないなら、お前を殺して俺も死ぬ」って。

小そめ 物騒ですね。それで22歳で結婚を決めた。

祐子 だって殺されたくないもん。16歳上の浪曲師。一緒になってからは相三味線(浪曲師と曲師のコンビ)となって、地方もずいぶん回ったね。娘たちの父親だから悪くは言いたくないけど、嫉妬深くて気が荒くて。口答えしようもんなら、殴られる。それも棒でだよ。子どもたちのためと思って辛抱しました。

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