正信次男・政重の波乱万丈すぎる生涯
彼はまず徳川家臣・倉橋家の養子となり、長五郎を名乗ります。ところが慶長2年(1597年)に徳川秀忠の乳母の息子を斬り殺して出奔。大谷吉継に仕え、さらに宇喜多秀家に2万石で仕えて正木左兵衛と名乗りました。
関ヶ原の戦いに敗れて宇喜多家が取り潰されると、福島正則に仕えるもすぐに退去。今度は加賀の前田利長に3万石で召し抱えられました。ところが長続きしません。慶長8年(1603年)、前田家を離れます。
すると翌年、上杉景勝の重臣・直江兼続が彼を婿養子に迎えます。兼続の娘・お松を娶った彼は直江大和守勝吉と称しました。もうこの辺りになると、彼は外様大名家にスパイとして次々に潜入していたのか、と疑いたくなりますね。
ついで慶長14年5月末から7月初旬までの間に、本多安房守政重と改名します。直江家の養子をやめたわけです。
慶長16年(1611年)に上杉家を出奔。慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰り、3万石を拝領。のち働きを認められて加増され、5万石に。