正信が富裕になろうとしなかったワケ

実は、彼がどこで徳川家に帰参するかは史実でもよく分かっていない。なのでドラマ内でどう描かれるかは、本当に脚本次第となりますが、やがては家康の下に戻り、ブレーンとなります。

流転の人生を送りながらも家康から絶大な信頼を得た本多佐渡守こと本多正信(徳川二十将図 江戸時代・18世紀 東京国立博物館所蔵 colbase

家康の信頼はとても厚く、たいへんな権力を持ちました。でも、家康は彼に、大したサラリーは出さなかった(1万石とも2万2000石とも)。

そして正信もそれで納得していた。「権力と金、両方は持たせない」というのが日本の伝統ですが、幕府の重臣として権勢をもった正信は、富裕になろうとしなかったのです。

家康が亡くなると、正信はそれを追うように亡くなります。このとき、やはり幕府の政治家として活躍していた嫡男の正純に遺言したといいます。

「秀忠様から加増の沙汰があったら、3万石まではお受けしろ。だがそれ以上貰ったら、皆々から妬みを受けて破滅する。よくよく気をつけねばならない」。

実際には正純は、この時すでに下野・小山3万3000石の大名でしたのでこの話はフィクションだと思われますが、のち正純は宇都宮15万5000石の大名になったものの謀反の嫌疑をかけられて失脚。

領地を没収され、現在の秋田県横手市にほとんど幽閉されて、生涯を閉じました。ちなみに彼の子孫たちも、立身できませんでした。

こうして正純は没落しましたが、正信の血筋は意外なところに残っています。キーマンは正信の次男・政重。この人物は波瀾万丈の人生を送りながら、しっかりと子孫を残しました。