寝たきりのままでも襲名するつもりでいた

植野 師匠は、『笑点』などを通じて「理性の人」「理屈の人」といったイメージをつくっていましたが、実際はどちらかというと感情の人。損得は考えず、心が動くかどうかで物事を決めるところがありました。お金も、「貸す」という名目でいろいろな人に渡していましたね。

 私は月々決まった額を生活費として渡されていたので、実際の収入も知らない。亡くなってこれまでのお金の出入りの全容を知り、驚いているところです。

植野 お金を渡す以上、返ってこなくていい。でも「やる」と言ったら相手に悪いので、「貸す」。そんなところがありました。

 下町で生まれ育った江戸っ子らしく、世話好きのおせっかいでしたから、本人は弟子のことや一門のことが心残りだと思います。どう考えているか、少しずつ聞ければと思っていた矢先に亡くなってしまって、それが残念です。

植野 これだけは、と考えていたのはやはり圓生襲名のことでしょう。大きな名前が長く空いているのは落語界にとって惜しいことだし、自分が襲名すれば若い世代に橋渡しできる。披露興行はあとになるけど、寝たきりのままでも襲名するつもりでいたと思います。

 あとは、残された皆さんの仕事。頑張っていただければ。

植野 高座にかけながら噺を作るタイプだったこともあって、師匠が稽古している姿は一度も見たことがありませんが、自分が落語界にできることはなにかを、いつも真面目に考えている人でした。

 私はね、中学生のときはじめて落語を聞いたんです。「地元に落語家さんがくる」というので家族で出かけたら、前座の人がとても上手で。父がのちに「おれが見込んだやつが、笑点に出てる」と言っていました。つまり、私が最初に落語を聞いたのは楽ちゃんの高座なんですよね。

植野 運命的なエピソードです。

 あとで「おれが見込んだ笑点に出てるやつ」が娘の結婚相手として家にやってきて、父はもっと驚いていましたけど(笑)。今日あったことを互いに話しても、アドバイスを求めることも、求められることもない。そんなコミットしすぎない間柄が心地よい35年でした。この場以外で私がお話しすることはもうないと思います。

医療関係の皆様、ご近所の皆様、仕事関係の皆様、ご友人の皆様。長い間円楽をお支えくださって、本当にありがとうございました。