2017年、世界最古の巨大建築物「クフ王のピラミッド」の内部構造を、素粒子によって画像観測したというニュースが話題になりましたが、科学技術はいまや考古学の分野にまでおよんでいます。一方、従来の歴史学では、科学や物理に反しているにもかかわらず「結論」「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが、三井造船で船の設計に長くかかわり、著書『日本史サイエンス』シリーズがヒットしている播田安弘さんです。播田さんからすると、文禄・慶長の役にて豊臣秀吉率いる日本軍が戦ったとされる朝鮮軍の亀甲船には、特に謎が多いそうで――。
日本軍相手に奮戦した亀甲船とは?
文禄・慶長の役で日本を相手に奮戦した李舜臣は、現在でも韓国の国民的英雄となっています。しかしこの戦いではもう一人の、いやもう一隻のヒーローがいるのです。
その船について、李舜臣の甥の李芬が著した『李舜臣行録』には、こう記されています。
――前方には竜頭をつくり、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。
大きさは朝鮮水軍の主力艦だった板屋船と同じくらいのこの船は、上部を亀の甲羅のように堅い板で覆いつくされた異様な形をしていることから、亀甲船と呼ばれています。
甲羅にはびっしりと刀が仕込まれていて、戦闘が始まると、その上にむしろをかぶせて隠し、船に飛び乗ってきた敵兵をそれで刺し殺したといいます。
そして驚くべきことには、船首に1門、左右に6門ずつ、計13門もの大砲を装備していたともいわれているのです。
李舜臣の『乱中日記』にも、3月27日と4月12日に亀甲船の大砲を10回試射したと記されています。大砲には、砲身が銅製の地玄銃筒(射程64mほど)と、砲身が鉄製の玄字銃筒(射程160mほど)の2種類があったとも記されています。
日本水軍は相手船に接舷して兵士が乗り込み、日本刀を振り回して殲滅する接近戦を得意としていましたから、亀甲船のように刀を仕込んでおくのは、きわめて有効だったと思われます。
さらに大砲が火を噴けば、日本水軍がおおいに苦しめられたのもうなずけます。亀甲船は韓国では李舜臣と並んで国民的人気を博していて、たくさんの模型や復元がつくられています。