「告白的自叙伝」有馬稲子

【1962/昭和37年】
「告白的自叙伝」有馬稲子

このころの本誌は、インタビュアーやルポの書き手として俳優らを起用、新たな才能を開花させていた。著名人から読者まで、告白の場として本誌を信頼する人が多いなか、有馬稲子さんは連載「告白的自叙伝」で生い立ちを赤裸々に綴る。そればかりか、その文章を川端康成さんが激賞した、と三枝さんは書く

 

有馬稲子さんが何かまとまったものを書きたい意向があるということは、有馬さんと親しいデザイナーの中林洋子さんからうかがった。その頃有馬さんは、(中略)主婦業に専念しておられた。

とにかく書きたいと思うことを存分に書いていただきたい、できれば今日までの歩んで来た道を率直に書いてほしいと、私は早速京都の彼女あてに長い手紙を書いた。(中略)

原稿を読んだ時、私は何ともいえない強烈な感動におそわれた。すばらしいのである。文章といい内容といい、思い切って自分の生いたちを綴った彼女の一文は、驚くべき告白の連続であった。

彼女は四歳の時朝鮮にいる伯母のもとにひきとられて、幸福に育てられた。女学校一年の時に終戦を迎え、命からがら六〇トンの漁船で日本へひきあげて来て、叔父夫婦の家に寄寓した。その叔父夫婦こそ、彼女の実の親たちであった。

「私が世の中で一番嫌いな人、もっとも軽蔑する、もっとも恐ろしい人、その人が私の実の父親であり、どうにもなつけなかったその人の妻が、私の生みの母親であった」と彼女は書いている。(中略)

第一回が掲載されると同時に、この文章は大変な評判を呼んだが、同時に彼女は、実母からの抗議に悩まされなければならなかった。

あれから四年たった昨年秋、帝劇開場を機に東宝がつくった女優の写真集の中に、川端康成氏の次のような文章を発見して、私は目を見はった。

「(中略)特にその幼少年期の部分は、実にすぐれた文章で、驚いたのは私一人ではなかった。彼女の文学好みは、むしろ、からかいの的にされがちのようだが、『自伝』は文学好みなどでは及びもつかぬ、質のいい文才で張りつめていた。したがって、有馬の人を知るには、あるいは見直すには『自伝』を読むにしくはない」

(三枝佐枝子著『女性編集者』より)

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