40年前、49歳で亡くなった母がした介護の苦労
私の父は4人兄弟の長男で、当時の世の中では当然のこととして両親と一緒に暮らしていた。母には長男である兄がいたが、若くして亡くなっており、高校生の時に父も他界しているため、母は老いて独居が心配になった自分の母親を引き取った。
すなわち、私は父方の祖父母と母方の祖母、計3人の年寄りが1つ屋根の下で暮らす家で育った。
家の1階には父方の祖父母がいて、2階の1室に母方の祖母の部屋があった。私は、父方の祖母を「おばあちゃん」、母方の祖母を「2階のおばあちゃん」と、呼び分けていた。
祖母は2人とも、1904(明治37)年2月生まれ。おばあちゃんは、裕福な家に育ち女学校を出ている。2階のおばあちゃんは、開拓農家出身で、貧しかったうえにきょうだいの子守をしなければならなかったために学校に行けず、読み書きができなかった。
育った環境がまったく違うことにより、互いに相手を理解できず、いがみ合っている状況だった。
例えば、おばあちゃんは華道と茶道の先生をしていたし、短歌を詠むのが趣味だった。一方2階のおばあちゃんの趣味は、プロレスのテレビ中継を見ることだった。
農家出身だったから、2階のおばあちゃんは、本当は庭で野菜を作りたかったのだと思うが、父方の祖父の土地に立つ家の1室に住ませてもらっている立場では、許されなかったのかもしれない。
母は自分の母親が、高尚な趣味を持つ姑に見下されていると感じていた。私はそんな母の愚痴を聞き、一方で双方の祖母が相手の悪口を言うのを聞き、自分が家庭の中のストレスを投げ入れられる「ごみ箱」のような存在に思えた。
いつも年寄りの間で、自分を押し殺して生活している母が不憫でならなかった。母を助けたくて、私は祖母たちの感情の「ゴミ箱」であり続けた。