認知症の患者を包み込む医師のやさしさ

月に1度の通院日。付き添いの私は、父の診察が終わると医師に言った。

「朝に薬を飲むのを忘れがちで、夕方に飲んでいることが多いのですが…」

医師は私に向かってではなく、父の顔を見ながら素晴らしい提案をしてくれた。

「朝でなくても大丈夫ですよ。今回から、袋に〈昼食後〉と書いておきますね」

注意されなかったことにほっとしたのか、父はうなずいた。

私は驚いて医師に質問した。

「え? 朝じゃなくてもいいのですか?」

医師は微笑みを浮かべ、再び父の目を見て話してくれた。

「本当は、朝飲んだほうが血圧には良いですよ。でも忘れるなら、昼でも構わないですよ。飲まないよりは、飲んだ方がずっとましですから、必ず飲みましょうね」

父は素直に「はい」と答えている。

私は医師の寛容な態度に、尊敬の念を抱いた。毎日、毎日、認知症の患者を診ているのに、決してイライラした態度をとらない。医師である前に、人として本当に素晴らしい。こういう人に私もなりたい。

だが、残念なことに、先生の前では優等生の返事をした父が、翌日にはすっかりそのことを忘れていた。夕方私が父の家に行くと、「薬カレンダー」にその日の薬が入ったままだ。

「あら、パパ、薬飲んでいないね。遅くても良いって先生に言われているから、今から飲もうね」

父はきょとんとした顔で言う。

「飲んでいなかったか? 忘れっぽくなったものだな」

最近父は指先がしびれるらしく、薬の袋をうまく開けられない。私が封を開けて、父の手の平に薬を乗せた。父が6錠を1度に口に入れようとした時、ピンク色の錠剤が1個父の足元に落ちた。父は甘えた声を出す。

「拾ってくれ」

「パパ、ちょっとかがむだけで取れるでしょ。自分で拾ってよ」

父はニヤッとして言った。

「立ってるものは親でも使えっていうくらいだ。お前は子どもなんだから、俺に使われるのは当然だ」

なんだかこの頃、父の頭は冴えている気がする。物忘れが激しいことと、ジョークを飛ばすことは、使う頭の神経回路が違うとしか思えない。徐々にすべての能力が低下するという訳ではないので、認知症の親への接し方は難しい。

(つづく)

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