断ちたくても断てない家族の繋がりに苦しんだ母

私が高校生の頃、2階のおばあちゃんが認知症になってしまった。当時は認知症という病名はなく、「ボケた」というのが普通だった。2階のおばあちゃんは、ご飯を食べたのを忘れて、何度もおかわりをしようとする。母はその度に言う。

「さっき食べたでしょ」

2階のおばあちゃんは、母を睨み、涙を浮かべて罵る。

「ワシを飢え死にさせるつもりか!」

財布がないと騒ぎ、盗んだ犯人は「あの人だ」と、私のもう一方のおばあちゃんだと決めつける。母は実母が姑に理不尽な言動をすることを気に病んでうつ状態になり、常に不眠や頭痛を訴えるようになった。

実母と姑の間で母はうつ状態になって…(写真提供:写真AC)

私は母の仕事を減らすため、2階のおばあちゃんが部屋で使っていたポータブルトイレの洗浄を担当した。2階のおばあちゃんは足が弱って階段の上り下りができなくなったため、部屋の中で用を足していたのだった。

学校から帰って着替えると、祖母のポータブルトイレの中身を捨てるために、2階から1階のトイレに持って行く。ロング丈のスカートを履いていた日、裾を踏んづけて階段を転げ落ち、排泄物まみれになったことがある。

少し残っていた排泄物をトイレに流してから、風呂場に持って行って中を洗浄し、水を少し張って漂白剤を入れる。そこまでは、毎日のルーティーンだ。

洗浄が終わったポータブルトイレを脱衣場に置くと、私は着ている物を全部脱ぎ、頭からシャワーをかけて、声を上げて泣いた。

「もう、嫌だ。年寄りの世話なんてしたくない」

かかった汚物を洗い流しても、涙は止まらなかった。母は私の髪を拭きながら言った。

「年寄りの世話は嫌だって久美子は言うけれど、それは思ってはいけないことなんだよ。介護が終わる日は、おばあちゃんたちが亡くなる日。世話をしたくないと思うのは、死んでくれと思うことと同じなの」

母は自分の母親と義父母の介護をし、自分の人生を楽しむことなく、年寄りを残して、49歳の若さでくも膜下出血で亡くなってしまった。

残された私は、母の代わりとして、祖母たちの世話をしなければならなくなった。その頃の思いを小説の形で書いた拙作、「母のゆいごん」(共同文化社)を読み返してみた。

嫌だからといって世話をやめる訳にいかない家族の繋がりは、時代が変わっても、どの家庭にも重くのしかかっている。

だからこそ、父の世話をする中に、笑いや心温まるエピソードを書いていきたいと私は思っている。