怖いものなんて何もない

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

――歌人として75年経ちましたが、今は非常に自然ですよ。だってもうすぐ人生も終わりですから、何も考えなくていい。来年かもしれないし、明日かもしれない。世間を考える必要もないし、怖いものは何もないの。

私は80代になるまで、自分が老いているなんて思わなかった。今にして思えば、老いるとは、自分の過去を知っている人がどんどんいなくなるということなのね。

肉体の衰えはありますよ。行動力がなくなって、新しい歌がなかなか詠めなくなるとか。50、60代の頃は歌がどんどん降ってきて、字を書くのが間に合わないくらいだったんだけど……。肉体は衰えるけれど、魂はそのままね。老化が怖い人は、魂のために、足腰を鍛えておくといいわ。(笑)

長年続けたお能の舞は、82歳でやめた。自分の舞の写真を見た時に、若い頃の背筋の線とは違っていて、姿勢が気に入らなかったのよ。このまま続ければ、こんな写真ばかりが残っちゃう。さらにこの頃は腰からくる右足の痛みで、歩くことはできるけれど、立ち続けるのも難しくなりました。今は頭の中で舞っています。

寂しいこともないわね。私にとっての寂しさとは孤独じゃないの。夕方の暮れていく空を見て、もっと何か広い大きな世界を感じる時なのです。人間って、すごく小さくて、薄くて、溶けちゃいそうですよ。老いなんか考えないで、自然に呼吸していればいいと思う。

いざ死ぬとなって、痛みがあれば「痛い痛い」と騒ぐかもしれないけれど(笑)、それだってたかが5分か10分。岩田はあっという間に死んだし、歌人の仲間たちもひとりで死んでいった人、女性歌人に多いですね。

私は虫が好きなのですが、人間も虫も同じ。生まれたら好きに生きて死んでいくだけです。戦争中にさまざまな死を見てきたから、怖いことなんてないのよ。

これまでを振り返ると、親、先生、友達、そして夫に対しても、全部わがままを通してきたなあと思います。得な性分なのか、鈍感なのか、だれにも悪く思われないで通してきちゃった。悪く思われていたとしても、気づかなかった(笑)。自分のやりたいことはともかくやりましたし、自分の道を歩めたことは良かったと思っています。

これから先も好きなことをするつもりです。つぶさに読みたい歌集もありますし、研究したいテーマもある。もちろん歌も詠みます。歌人は歌を創るしかないですからね。最後の友達は歌だけだと思っています。

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『幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々』公式サイト

監督:田代裕/出演:馬場あき子/語り:國村隼