条約の批准に情熱を傾けて
市川房枝と赤松良子は、その後浅からぬ縁を結び、働く女性の歴史に新たな扉を開くことになる。大きな契機となったのは、国連の「女性差別撤廃条約」の批准である。
1979年に成立した女性差別撤廃条約は、「世界の女性憲法」ともいわれている。政治、経済、社会、文化、市民活動などあらゆる分野で男女平等を基礎として、男女の差別をなくし、基本的人権を保障することをめざす。
市川は最晩年、日本もこれを批准すべきだとして国内団体をまとめて世論を盛り上げ、政府に再三働きかけた。市川は女性運動の総仕上げとばかりに、条約の批准に向けて情熱を傾けた。
「婦人の権利が法律に書き込まれることは非常にすばらしい。それが国際条約の中に書き込まれるということはもっとすばらしい。なぜなら、(その条約を批准すれば)時の政府によって勝手に変更することができないから」
市川はこう語って条約の批准を後押ししたと、山下泰子(元国際女性の地位協会会長)は、講演で語っている。
条約批准という「外圧」があったからこそ、均等法は誕生した。同時に均等法が成立しなければ、条約は批准できなかった。市川と重なり合った歩みについて聞きたいと、赤松良子に申し入れたところ、東京・六本木にある国際文化会館のロビーを指定された。
国際文化会館は、都心とは思えない2000坪もの庭園に囲まれた会館である。戦後1955年、ロックフェラー三世と松本重治が文化交流を通じて相互理解を深めようと、知的・文化的交流のセンターとして開設した。市川は晩年ここで毎年正月を過ごし、甥の家族を招いて食事をともにしたという。
いまも会館は一面の緑に覆われている。洒落た茶色いフェルト帽をかぶり静かな足取りでロビーに現れた赤松は、庭園に面した窓際のソファーで、市川とのかかわりを語り始めた。