参議院議員(無所属)だった頃の市川房枝(昭和45年4月21日撮影、本社写真部)
戦前から戦後にかけて、女性の地位向上を様々な方法で訴え続けた市川房枝。「女性の参政権」を求め、戦後は無所属の参議院議員として活躍した彼女の方法論は、今に生きる私たちのキャリア形成にも生きるものがあると、『日経WOMAN』編集長を務めたジャーナリストの野村浩子さんは言います。市川房枝と赤松良子(財団法人日本ユニセフ協会会長)の出会い、そして「女性差別撤廃条約」の批准に向けて動いた軌跡とは――。

「均等法の母」赤松良子のお茶だし

赤松は労働省婦人少年局の新人時代、市川房枝に「お茶だし」をしたことを鮮明に覚えている。赤松はこのとき、かの有名な市川が局長室に来ていると聞き、「生で見たい」とお盆を抱えておそるおそる局長室をノックした。

「愛想のない人だなあ」

これが第一印象だった。

赤松は1929年生まれ、市川の36歳下にあたる。幼いころ姉から「婦人参政権の獲得のために尽力された、市川房枝さんという立派な方がいる」と聞かされていた。社会人となり対面あいなったとき、市川は「男性にとっては、泣く子も黙る存在。女性にとっては、輝かしいパイオニア」、あおぎ見るような存在であった。

当時、婦人少年局長は藤田たき(のち津田塾大学学長)、戦前から市川と女性参政権運動をともにした盟友である。藤田から相談ごとがあると電話を受けるや、市川は局長室に駆けつけて陰ながら支えた。

行政改革により婦人少年局の縮小や廃止が一度ならず俎上にのったが、そのたびに存続に向けて市川は奔走した。縮小どころか拡大すべきであると、首相に直談判までした。婦人少年局の職員たちは、こっそり「市川のお助け」と呼んで、頼りにしていた。

なんでも千葉県の市川に指圧の名人がいて「お助け」と呼ばれていたことから、職員の誰かが感謝の意をこめて「市川のお助け」と名づけたとか。