「国際婦人年日本大会」を開くまで
「国内委員会」は、発足早々行動を起こす。国連総会に初めて日本から代表団が送られるにあたり、代表団に女性を加えることを政府に働きかけた。
「国内委員会」が適任者として藤田たきを推薦して派遣が決まった。以来、代表団に必ず女性を入れることが慣行となった。
緒方貞子によると、選考にあたり市川はこう語っていたという。
「民間の意向を代表して、とくに婦人問題に関心のある人に出てもらいたい。ただし、政府代表であるから政府の方針と極端に対立する立場の人を推薦するわけにはいかないし、役所の人たちともある程度協力できる人柄であることが望ましい」(『毎日新聞』夕刊、1980年9月16日)
市川らしい、きわめて現実的な考え方である。しかし、すべての条件を満たす適任者はそうそういない。市川が人選に四苦八苦するさまを、緒方はたびたび目にしたという。
国連が、1975年からの10年を「国際婦人の10年」とすることを発表すると、このときもまた市川はいち早く動いた。このとき82歳を迎えていたが、エネルギッシュな活動ぶりにはまわりも驚いている。
国連の動きを日本に伝えると同時に、国内の女性団体を束ねて女性の地位向上に向けてのムーブメントをおこそうとしたのだ。全国組織の女性団体、労働組合女性部に働きかけて41団体を束ね「国際婦人年日本大会」を開く。
続いて1980年に開かれる「国連婦人の10年世界会議」に向けて「国連婦人の10年中間年日本大会実行委員会」を結成して、自ら実行委員長に就いた。
※本稿は、『市川房枝、そこから続く「長い列」──参政権からジェンダー平等まで』(亜紀書房)の一部を再編集したものです。
『市川房枝、そこから続く「長い列」──参政権からジェンダー平等まで』(著:野村 浩子/亜紀書房)
「私は憤慨しとるんですよ」
ジェンダー平等後進国といわれる日本で、100年前から女性の地位向上を訴えていた人がいた。戦前は男性にしかなかった「女性の参政権」を求め、戦後は無所属の参議院議員として人びとに慕われた。国際社会の外圧を使い、データを揃え、仲間を募り、社会に波を作る──市川房枝の方法論はいまも褪せない。