公式電報のあとの一本の電話

第二次世界大戦後に誕生した国連は、1974年、あらゆる女性問題を包括的に規定する条約をつくろうと女性差別撤廃条約の起草に着手する。1979年、国連公使としてニューヨークに赴任し国連総会で条約の審議にかかわったのが、赤松良子である。

赤松の大きな役割のひとつは、各国が条約批准に対してどのような態度をとっているかを探って、日本に報告することだった。随時、外務省に公式電報を打って報告をする。そのあと、少し間をおいて電話で報告をする相手がいた。市川房枝である。

「先生、アメリカはもめてるみたいですよ」
「ほう。そうか」

公式電報のあとの一本の電話―、ここに至るには、市川と赤松の響き合う関係があった。

市川と赤松が仕事で接するようになったのは、赤松が労働省婦人課長になってからだ。

婦人参政権25周年を迎え、功労者25人に総理大臣から感謝状を差し上げることになった。平塚らいてう、市川房枝など候補者リストを持参し、市川のもとを訪ねて相談したこともあった。

女性の労働施策などについて、ときには意見の相違があり「どうなっているのか」と呼び出しを受けることもあったが、議員会館でも婦選会館でもどこでも足を運ぶようにしていた。

このころ国連は女性差別撤廃条約の草案策定に入っていた。市川はいち早くこの情報をキャッチして、「どんな内容か」と赤松に問い合わせを入れている。赤松は市川のアンテナの鋭さに感心したという。そのころはまだ、労働省でも条約の検討状況を詳らかに把握していなかった。赤松は手を尽くして条約の草案を調査して、市川のもとに報告に赴いた。

「役人をうまく使っていち早く情報を得る。仕事がしっかりしていた」と振り返る。

市川はまわりにさまざまなアドバイザー、情報をもたらす人脈を抱えていた。そこから入る情報に対して、「これぞと思うものに対する閃(ひらめ)きのある人だった」と赤松はいう。それが政治家として成功したひとつの要因だっただろうとみている。