家族は「崩れる」んじゃなくて「ほぐれる」

蓮の受験を通して、秋は母親の知香とたびたび衝突する。我が子と衝突するたびに、母親の知香はLINEグループから抜けてしまう。その様を、小佐野さんは作中で、“ただLINEグループでつながっているだけの、いつでも「退出」できてしまう家族”と表現している。

僕は、家族の関係性って「崩れる」んじゃなくて「ほぐれる」ものだと感じていて。何かの折に距離が開いてほぐれても、千切れてはいないから、必要なタイミングでまたキュッと縦糸と横糸が締まるんですよね。秋を取り巻く家族も、そんなふうにほぐれたり締まったりを繰り返しながら、「家族」の形を模索していきます。

小佐野家も、現在進行形で再生の途上にいます。実は先日も、母と盛大にやり合ってしまって。その時に感じた苛立ちや悔しさが、過去に母から言われた“心を抉る一言”と結びついたため、連載中のコラムに思いの丈をぶつけてみました。(笑)

母からは、「あなたのそのやり方は卑怯だ。今更過去を蒸し返す必要があるのか」と言われましたが、僕は「必要ある」と答えました。過去も含めて家族の歴史があって、その上で僕らは今も家族をやっているので。与えられたもの、奪われたもの、両方を書くことで伝わるものがあると思うんです。

とはいえ、僕は結局、母のことが大好きなんですよ。なので、母とぶつかるたびに、「私を大好きなまま死んだら彈が辛くなるから、少しずつ嫌いにさせてあげよう」という親心なんだな、と思うようにしています。コロナ禍、僕は台湾にいたので、およそ1年半から2年ほど、母と物理的に離れていた期間がありました。その期間を経て、母との関係性に変化が生まれた気がします。離れていた時期に書いた『僕は失くした恋しか歌えない』という自伝的小説は、母に宛てた手紙のようなものでした。

母と物理的に離れていた期間を経てたことで関係性が変化したと語る小佐野さん

僕にとって、小説や短歌を書く作業は、ある意味では親離れであり、個人として独立しようとする工程でもあります。以前、母親から言われた言葉が胸に残っていて。「何かを自慢するのなら、自分の力、自分の能力で達成したことを自慢しなさい」と。小説や短歌は、家柄に関係なく自力で成し遂げたひとつのアチーブメントだと思っています。

「文学=小説」という認識を持たれている方が多いですが、実際は、短歌も詩も小説も、優劣なくすべて「文学」です。僕の母も、芥川賞や直木賞を取ってこそ、みたいな感覚があるようですが、それは「小説」以外の文学が見えていないように感じます。なので、これも突き崩したい。歴史でいえば短歌の方がずっと長いわけで、僕にとっては、小説も短歌も大切な表現の手段で、どちらも「文学という広野の一分野」です。