「世間」の風潮が強い国で、能動的に生きる
作中、異母弟の蓮を引き取るくだりで、パートナーの哲大が秋に対してこう言う。
“「家族、やってみようや」”
ドラマや映画などのプロポーズのシーンでは、「家族になろう」との台詞が多い。しかし、小佐野さんにとっては、「家族、やってみようや」の方がしっくりくるとのこと。そこには、現代の日本社会が抱える課題と、「家族の在り方」そのものに対する揺らぎが見え隠れする。
僕のセクシュアリティはゲイなので、現在の日本の制度上結婚ができません。だから、「家族になる」という感覚はゼロです。僕にとって、「家族」はインフォーマルな制度で、非常にグラグラしていて安定感のないイメージ。「フォーマルな制度を持たない」側からすると、「自分たちで能動的に家族を作る」「家族的なものをやってみる」という感覚しかないんです。
子どもの件に関しても、同性同士のパートナーの場合さまざまな壁があり、養子を迎える選択をする人はごく少数です。そういう意味でも、哲大の「やってみよう」の台詞は自然なものだと思っています。
作中の蓮の描写は、甥っ子の日頃の様子やエピソードからヒントを得て書きました。兄の息子なんですけど、本当にかわいいんですよ。本の最後の頁に蓮の絵日記が登場するのですが、あれは、甥っ子の作文を一字一句そのまま借りたものなんです。
物語中盤、同性の両親を持つ蓮が子ども同士の関係性において難しい立場に立たされたり、秋が心無い言葉を周囲にぶつけられる場面がある。マイノリティに対する世間の風当たりは強く、秋は何度も心が折れかけてしまう。でも、「世間は秋たちを幸せにはしてくれない」ことを秋は知っている。
母は以前、僕にこう言いました。
「世間が私たちのことを幸せにしてくれるんだったら、大いに世間に気を使うべきだけど、私たちの人生見てみなよ。世間なんて、ロッキード事件の時から誰ひとりとして私たちのことを幸せにしてはくれなかったでしょう。だったら、世間に対して気を遣って生きる必要なんてありません」
小佐野家に生まれて、ロッキード事件があって、離婚を経験して。母も世間の偏見や無理解に晒されて生きてきたので、多くの葛藤を抱える中で、このような境地に至ったのでしょう。日本は、「社会」よりも「世間」の風潮が強い国だと感じます。その中で生きていくためには、能動的にならざるを得ないんですよね。