「毒」までも「エレガント」にすることで生まれる価値

一方、江戸と対比して考えると京都では、たとえば家同士でも300年ぐらいお隣さんですね、といったことがあり得る環境です。江戸/東京ではちょっと考えにくい。

しかし、300年もずっと隣同士でいるとなると、これはトラブルが起きたら大変なことになるわけです。

『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(著:中野信子/日経BP)

そういうところでは、本当は不満があって、困っていて、イヤだなと思っていても、それを相手の気持ちに火をつけてしまうことなく、うまく伝える方法が必須になります。

そういったところで磨かれたコミュニケーションが、あの独特のエレガントな方法ではないでしょうか。

個人的な感想ではありますが、江戸/東京にずっと長くいた家に生まれた私から見ると、いかに内容そのものが毒であったとしても、やはりその伝え方は洗練されていて、アートを感じさせ、憧れの気持ちが生まれます。

もちろん、京都人は京都人で言い分があると思います。

本来ならば、この記事のような内容は京都人に書いていただかねばならないというのが筋でもあるでしょう。

しかし、完全に部外者の私が、よそから見て、だからこそ分析できるという要素も、意外にあるのではないだろうかとも思うのです。