「京都のコミュニケーション」を今こそおすすめしたい理由
南米の国同士の摩擦については耳にしたことのある人もいるかと思います。ヨーロッパでもフランスとドイツの仲の悪さは実際に見て驚きました。
研究所時代にドイツ人の同僚に、「ドイツの国歌はどんな感じなの? 歌ってよ」と言ったところ、彼は「ここはフランスだよ、僕、歌いにくいな……」と言うのです。
それでも私が食い下がって「小さい声でどうかな?」と言うと、本当に蚊の鳴くような声でボソボソと歌うという、それくらい遠慮しなければならないほど歌いにくいようでした。
第2次世界大戦の歴史がまだ記憶にあるということなのでしょう。いまだに、お互いにそういうわだかまりが残っているのか、と感じたことをとても印象的に覚えています。
隣国同士の間柄でこうしたことをできるだけ避けていくのには言葉のアートともいうべき、言い回しの工夫が必要とされる場面ではないでしょうか。
長期的に見たときに互いの心理的負荷をできるだけ下げ、互恵関係を結んでいけるようにするのには、常からの努力がいるということになります。
まさに、破壊は一瞬、建設は死闘とまではいかずともたゆまぬ終わりのない努力、というのが、人と人との間柄ではないでしょうか。
レトリックという言葉はあまりいい意味で使われている単語ではないかもしれないですが、関係性を良好に保つためには非常に重要なものでもあります。
そこで、隠された嫌みが理解できるということが、ある種のステータスとして意味を持つわけです。
嫌みが分かったなら分かるなりに、謝罪するなり改善するなりのコミュニケーションをとればいい。
分からなくても、それはそれでいいのです。「田舎者」とただ京都人(もしくは、より文化的に上位にあると自信を持っている側)に嘲笑されるだけで、そのほかには特に害もありませんから、致命的な衝突にまで発展する可能性はより抑えられることになるでしょう。
※本稿は、『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(日経BP)の一部を再編集したものです。
『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(著:中野信子/日経BP)
職場、取引先、身内、ママ友、ご近所…
イヤなことをされる、困っている、本当は言い返したい。
だけど、この関係性は壊せない――
つい「この場さえ我慢すれば」と思ってしまう自分を救う知的戦略。
「大人の教養」と「古都・京都が育んだ人間関係のエッセンス」を、一緒に学んでみませんか。