信長の出馬
『当代記』によれば、武田軍は竹束によって鉄炮や弓矢から身を守りながら攻め寄せ、また金掘人足(かねほりにんそく)を使って堀や塀を切り崩し、昼夜を問わず攻め立てたという。
窮状を訴える使者となったのが鳥居強右衛門で、帰城にあたり武田軍に捕縛され、援軍は来ないというように強制されたが、家康らの来援が近いことを告げて城内の兵を励まし、磔(はりつけ)になったといわれている。
勝頼を侮りがたい敵として認識するようになった織田信長は、武田軍が三河に侵攻してくる前の三月初めに、家康に兵粮米を送るとともに、佐久間信盛を派遣して家康方の備えを検分させた。
この兵粮米の件は、三月十三日付の信長宛家康書状によって確認される。『当代記』によれば兵粮米は2000俵にものぼり、境目の城々へ入れ置くようにということで、家康は長篠城へは300俵を入れて籠城に備えさせた。
武田軍の三河侵攻を受け、家康はただちに信長に使者を送って援軍を求めた。ちょうど畿内での戦いが一区切りついたところでもあり、今回は信長もすばやく対応し、五月十三日には長篠城の後詰のため、嫡子信忠とともに岐阜から出馬した。