川を挟んで対峙した武田軍と徳川・織田連合軍

十八日に有海原に着くと、長篠城の救援に向かうことなく進軍を止め、この地に布陣することになった。結果的に決戦の場となったこの地は、これまでは「設楽が原」とよばれてきたが、『信長公記』や『三河物語』に従って「有海原」とする方がいいだろう。

信長は極楽寺山に本陣を構え、信忠は新御堂山に陣を取った。窪地がある地形を利用することで、三万もの軍勢がそれほどにはみえないように、段々に配置したという。

家康は前面に出て連吾川を前にして、高松山に陣を敷いた。そして武田軍の来襲に備えて、馬防のための柵を設けた。

他方で、勝頼は信長・家康の軍勢が直接長篠城の救援に来ず、有海原にとどまり、馬防柵で守りを固めたのをみて、敵は臆したと考えたようだ。長篠城に押さえの軍勢を残し、自らは全軍を率いて有海原に進軍・布陣したことで、両軍は連吾川を挟んで対峙することになった。

『信長公記』によると、決戦前日に信長は策をめぐらし、酒井忠次と信長の馬廻り衆で別働隊を編制し、鳶ノ巣山砦を襲撃することにした。二十日の戌の刻(午後八時頃)に出立し、翌二十一日辰の刻(午前八時頃)に数百挺の鉄炮を放ち、鬨(とき)の声をあげて突撃した。

砦の兵たちが敗走したため、これを追いながら長篠城の兵と合流し、長篠城の押さえの武田軍を追い払った。このため、有海原の武田軍はいわば退路を断たれたような状態となり、このことが決戦の場での勝敗を分ける一因となった。