長篠の合戦の真実
ところで、この長篠の合戦(長篠城の攻防戦と有海原の決戦とを合わせていう)は、数ある戦国の合戦の中でも有名である。3000挺の鉄炮を三段に分け、1000挺ずつ代わる代わる撃つという信長の新戦術が大成功を収め、武田軍の騎馬隊を打ち破ったなどといわれてきた。
このような通説的理解に対しては、早くから基本的な問題点が指摘されていた(藤本正行『信長の戦国軍事学』)。
決戦の場が「あるみ原」であること、 小瀬甫庵著『信長記』から始まる鉄炮1000挺ずつの三段撃ちの"新戦術"などありえないこと、武田軍といえども全員が乗馬した部隊があったわけではなく、「武田騎馬軍団」という言葉は不適切であること、武田氏も鉄炮を軽視していたわけではなかったが、火薬の主原料硝石(しょうせき)や弾丸の原料に最適の鉛などの入手に不利だったことなどである。
その後も諸氏によって通説的な理解は次第に否定されていったが、ここでは煩雑になるため詳細は割愛する。
最近になって、長篠合戦に関する新たな事例の発掘や新解釈がみられる著書が刊行され(平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』など)、新しい局面に入ったともいわれている。しかしながら、これに対しては内容もさることながら、先行研究への批判の作法ともいうべき点で問題があることが指摘されている(藤本正行『再検証 長篠の戦い』)。
新解釈の問題点ということで一例をあげると、三段撃ちの三段を三列に並べるというのは誤解・誤読であり、「段」とは部隊のことで、鉄炮衆だけで編制された三個の部隊を、三ヵ所に配置したといわれるのであるが、創作部分が多く、信憑性の乏しい甫庵『信長記』の「三」にこだわって読み替えてみても、あまり意味がないだろう。
信憑性がある太田牛一の『信長公記』によれば、信長は1000挺ほどの鉄炮を佐々・前田・野々村・福富・塙の五人の奉行に統括させて戦いに備えたといっている。それゆえ、三個の部隊などではなく、少なくとも五人の奉行にそれぞれ統括された、五個の部隊があったとみなければならないからである。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。