有海原での決戦

『信長公記』をはじめとする諸書によると、戦いは早朝より始まり、未の刻(午後二時頃)まで続いたようである。

最初は小競り合い程度から始まったとみられるが、やがて鳶ノ巣山砦が落とされ、長篠城の押さえの兵も敗走したという情報が入ると、退路を断たれた武田軍は正面の徳川勢や織田陣営につぎつぎと攻撃を仕掛けるようになった。

『信長公記』によると、一番山県昌景、二番武田信廉(信玄の弟)、三番小幡憲重、四番武田信豊(信玄の甥)、五番馬場信春だったといわれている。

武田軍はつぎつぎに突撃を繰り返したが、鉄炮と馬防柵に阻まれて、過半が打ち倒されて引いていった。昼近くになると次第に勝敗が明らかになり、武田軍の敗走が始まった。

合戦では敗走時に死者が増えるのが常であり、武田軍は大敗し、山県昌景・馬場信春をはじめ、名のある武将たちが多数討死した。