亀の子たちの活躍

次男の家治は14歳で早世。

三男の忠政は加納に移って父母と生活をともにしていましたが、信昌が隠居すると、加納藩主に就任しました。ただし、彼も、彼の跡継ぎの忠隆も比較的早くに亡くなり(忠政は35歳、忠隆は25歳)、加納の奧平家は断絶しました。

四男が忠明です。この人は外祖父家康の養子となっていたため、松平を名乗りました。いわゆる「奧平松平家」です。

家康と秀忠に才能を評価され、伊勢・亀山5万石などを領し、大坂の陣でも堅実に任務をこなしました。その功績を買われ、とくに大坂藩10万石の殿さまに。戦災を受けた大坂の復興に尽力しました。

商人である安井道頓(大坂の陣に巻き込まれ、大坂方として城内で戦死)が工事を始めた堀を道頓堀と命名したのは忠明といいます。

秀忠は三代家光の後見人(のちの大老に匹敵)に、彼を指名しました。また、領地は大和・郡山12万石、播磨・姫路18万石に移っています。彼の家は明治維新まで続き、最後は武蔵・忍10万石の殿さまでした。