母の犠牲のもとに成り立っていた生活

私が幼少期を過ごした家は、寒いときには室内でもマイナス10度。

母が毎朝いちばんに起きて石炭に火を灯(とも)す。温まったところに私たちが起きてきて、いつもどおり用意された朝ご飯を食べる。

バービーさん「結婚はしなくてもいいけれど、パートナーであれ友だちであれ、誰かと住もうとはずっと思っていたんです」(写真:『「わたしはわたし」で生きていく。』より)

母は祖父母の介護もして、近所のじじばばのお世話もして、パートに畑仕事。

私たち家族の生活は、確実に母の犠牲のもとに成り立っていたなと、今になって思います。

犠牲になっている人が「つらいよ」と言えない状況はおかしいけれど、それが当たり前という時代もあったから、困っていることに無自覚な人もいるかもしれません。

だからこそ、社会全体でみんなが自然にフォローし合える体制を作れたらいなと思ってしまうんですよね。

公的に負担してもらえる部分がもっと増えて、家族という小さな単位のなかだけに厄介(やっかい)事を押し込めずに、外に出したり共有したりできるようになったら、犠牲になる人も減るんじゃないかなと。