人は、全員、スペシャルなのである

とても親の関わりが多い幼稚園である。
幼稚園、親、子どもが三位一体になり関わるという方針で、月に一度はいわゆる保護者会があった。その保護者会では、子どもたちの今の姿を共有するというのが一つの目的である。

先生と親たちが教室で円になり、子どもたちの様子を聞き、意見を交わした。

子どもたちの揉めごと、たとえば、
「AくんがBちゃんを叩いて、それをCちゃんがAくんが悪いと怒ったけれど、DちゃんはAくんの肩を持ちました。
帰りの会で子どもたちに聞いてみました。Aくんは、こう言いました。Bちゃんにバカと言われたから叩いた。Dちゃんに聞いてみると、その様子を見ていたからBちゃんは叩かれてもしょうがない、と言いました。Cちゃんは、バカと言ったのは見てないけど、叩くのは良くない、と言いました。ではなぜBちゃんは、バカと言ったのかを聞いてみたところ、言いたくない、と言って泣きました」
というようなことを、親たちは共有するのである。

この保護者会に参加するのはむちゃくちゃ疲れる。娘の名前が出ないだろうかとはらはらするし、それは叩いた側であっても叩かれた側であっても。

なぜ、そのようなことまで、親たちが共有するかというと、先生や親が意味づけたものではない、子どもたち一人一人のことを知るためだという。Aくんには理由があったのだな、そういう状況があったのだな、と知ることで、あの子は叩く子だ、などといった決めつけや偏見を持たないようにする。叩いた理由やパーソナリティがわかると、それぞれの子どもを見る目が変わる。子どもをみる温かい目を増やしていくことができる。親たちもその一人になることが求められていた。


わたしは、今更ながら、意地悪をするには、必ず何かしらの理由があることを知った。

それは相手に対しての不満が募った場合もあるし、意地悪だとも思わずやっていたことが相手にとってはイヤだったという場合もあるし、自宅での不満や寂しさが他者に向かって出てしまう、という場合もあったように思う。

 

そして、イヤな思いをした子たちの感情も勉強になった。
え、そんなことに傷つくの?
ということも多かった。
逆に、そんなことされて傷つかないんだ! という子もいたりして。
いかに自分の物差しで、周りの人たちをジャッジしてきたか、を思い知ることができた。

 

わたしの「普通」は、「普通」ではなかった。そもそも、普通など存在しないのかもしれない。

『母が嫌いだったわたしが母になった』(著:青木さやか/KADOKAWA)