面識のない女だった。目元や頬の肉が柔らかくたるんでいるところを見ると、年齢は還暦あたりと思われる。年相応に脂肪のついた体にタイトなワンピースをまとっており、髪型は昔のキャバ嬢を彷彿とさせる、トップにボリュームのあるハーフアップ。全体的に若作りで、おまけに声が酒焼けしていた。
「あの――」
どなたですかと聞きたいのに、言葉が出ない。女は屈み込んで掃除をしていたようで、柄の短い箒とちり取りを手に持っていた。
足踏み式のゴミ箱の蓋を開け、女はちり取りの中身をそこへ空ける。割れた陶磁器の欠片らしきものが、音を立てて滑り落ちてゆく。
「お父さんの具合はどう?」
明日美がなにも答えられずにいるうちに、質問が重ねられた。父が倒れて病院に運び込まれたことは、すでに知っているらしい。
「あなたは?」と、辛うじて尋ねる。
女はおもむろに作業台に置いてあった煙草の箱を手に取ると、明日美に断るでもなく一本咥えて火をつけた。先端がジジジと音を立てるほどめいっぱい吸い込んでから、軽く顔を背けてアンニュイに煙を吐き出す。
「私、梅野(うめの)ひかり。ここに倒れてた時次郎(ときじろう)さんを見つけて、一一九番したのよ」
時次郎というのが、父の名だった。ひかりは自分の足元を指差している。どうやら父は、厨房に立っている最中に脳出血を起こして倒れたらしい。その拍子に、皿かなにかが一緒に割れたのだろう。ひかりはそれを片づけていたのだった。
「そうだったんですね。ありがとうございます」
心の底からそう思っているわけでなくとも、礼は述べておくべきだ。複雑な感情を抱きつつ、明日美はぺこりと頭を下げる。作業台に置かれた煙草の横には、まねき猫形のキーホルダーがついた鍵が載っている。
見比べてみなくても、明日美が持っている合鍵と同じものだ。シャッターと、店舗の鍵。この人は、自由にここに出入りできる身の上らしい。
たぶん、父の今の彼女なんだろう。
と、見当をつける。ひかりは、父時次郎の歴代の恋人たちと、雰囲気がよく似ていた。
時次郎は、常識では測れない男だった。少なくとも世間一般の父親像からは、大きくかけ離れていた。
実家は長野の旧家だというが、とっくの昔に勘当されており、明日美は父方の親戚を一人も知らない。ただし手切れ金として親の遺産からまとまった金額をもらったらしく、時次郎はよく飲み歩いていた赤羽の街に、二階建てのアパートを建てていた。
明日美はその一室に、生まれ育った。六畳の和室が二つに、ダイニングキッチン。お風呂はバランス釜で、シャワーはついていなかった。
その部屋に、親子三人で暮らしていた、はずだった。明日美が「お母さん」と呼んで親しんでいた人が実の母ではなく、時次郎との間に婚姻関係すらないことを知ったのは、小学三年生の夏だった。
実の母は明日美がうんと幼いころに、時次郎に嫌気が差して逃げたらしい。そして「お母さん」にもまた、そのときが迫っていた。
「明日美ちゃん、ごめんね」と、「お母さん」はその日泣いていた。
「お父さんとはずいぶん長く一緒にいたけど、もう疲れてしまったの」
明日美が小学校に上がってから弁当屋でパートをはじめた「お母さん」は、そこで自分だけを愛してくれる実直な男と知り合ったのだ。彼女は当時三十代半ばで、まだいくらでもやり直しがきく歳だった。
「お願い、一緒に連れてって」と、明日美も泣いた。実の父とはいえ、ふらふらと遊び歩いてばかりの時次郎には、まったく愛着はなかった。
でも「お母さん」とは戸籍上で繋がったことすらなく、共に行くことはできなかった。
「明日美ちゃんの面倒はちゃんと見るよう、お父さんに言っておいたから」
そう言い残し、「お母さん」は去って行った。
その後は短いスパンで時次郎の恋人たちが家に出入りして、明日美の世話をしてくれた。親切な人もいればドライな人もいたが、一番やっかいなのは時次郎の本命になりたいあまり、張りきりすぎてしまう人だった。
そういうタイプは明日美に気に入られようと必死で、余計な領域にまで踏み込んできた。ある女に「明日美ちゃんと仲良しになりたいの」とペアルックを強要されたときは、心底嫌気が差してしまった。拒否すると、とたんに不機嫌になるところも恐ろしかった。
いずれもスナックかなにかで知り合った女らしく、見た目が派手で香水臭かった。中身がクズであるにもかかわらず時次郎は長身でルックスがよく、異性からもてたようだ。恋人が途切れないばかりか常に複数人いて、女たちもそれを承知で競い合っていた。
もうたくさんだと思ったのは、アパートの部屋で鉢合わせた二人の女が、掴み合いの大喧嘩をはじめたときだった。仲裁に入ろうとした明日美は片方の女が振り上げた四角い置き時計の角で、額を三針縫う怪我を負った。
それ以来、すべての女たちは出入り禁止になった。明日美が時次郎に直接「いい加減にしてほしい」と文句を言い、聞き入れられた結果である。
「お母さん」が出て行ってからずっと、気の休まらぬ日々を過ごしていたが、明日美は久し振りに自宅でゆったりと寛いだ。すでに中学生になっており、身の回りのことは自分でできる。時次郎は相変わらず家に帰ったり帰らなかったりを繰り返していたが、そういうものだと思っていたからべつに寂しくはなかった。