脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

       〈一〉

 こんな日が、いつか来ると分かっていたのかもしれない。

 もしもの場合に備えて渡されていた合鍵を握りしめ、明日美(あすみ)は一軒の家の前に立っていた。

 JR赤羽(あかばね)駅の東口を出て、徒歩五分。ラーメン屋とホルモン屋に挟まれたその家もまた、店舗付きの住宅である。一階上部には看板を兼ねた固定テントが張り出しており、丸っこい書体で「まねき猫」とプリントされている。

 ずいぶん年季の入った建物だ。外壁はひび割れており、元は鮮やかな緑だったらしい固定テントも雨垂れの跡を残して退色している。いつからなのか二階の窓の一部が割れて、ベニア板で塞いであった。

 十六年前に明日美の父が居抜きで買った、立ち飲み居酒屋である。そのころ明日美は結婚をして中国地方の小都市に住んでいたから、ここには数えるほどしか来たことがない。いろいろあって独り身に戻ってからは、すっかり疎遠になっていた。

 でもやっぱり、関わらずにいることはできないのね――。

 明日美にとって父はもはや、唯一の肉親だった。十年もの長きにわたり没交渉だったとしても、倒れたと聞かされては駆けつけないわけにいかなかった。

 救急病院からの着信に気づいたのは、昨日の仕事上がり後だった。

 明日美は今、新宿のコールセンターで働いている。勤務中、私物のスマホは電源を切っておく決まりのため、午後八時を過ぎてからやっと留守電を聞いた。救急病院の看護師が事務的に、父親が倒れて搬送された旨を伝えていた。

 赤羽の高台にある病院だった。新宿からなら、埼京(さいきょう)線に乗ればすぐに着く。慌てて駆けつけてみたがHCU(高度治療室)に入ってしまった父とは会えぬまま、入院誓約書や各種同意書にサインを求められた。倒れたというから転んで骨でも折ったのかと思いきや、はるかに大ごとになっていた。

 脳出血だと、担当医師は言っていた。「まねき猫」の店内で倒れているところを発見されて、病院に担ぎ込まれたという。一昼夜ほどもその場に倒れていたようで、熱中症まで引き起こしていたそうだ。

 父は昔から、血圧が高かった。そのくせ医者嫌いで通院や服薬を避ける傾向にあり、医学的に有効な手立てを取っていたかどうかは分からない。

 この十年、連絡すら取り合っていなかったのだ。医師から常備薬の有無や病歴について質問されても、明日美はなにも答えることができなかった。ただ「もしものときに延命治療を望みますか」という問いにだけは、「いいえ」と首を振っていた。

 突然のことで、父の健康保険証や身分証は手元になかった。一方的に押しつけられていた合鍵だって持ち歩いているはずがなく、一夜明けた今日、こうして家の前に立っている。

 父の持ち家とはいえ、実家と呼べる場所ではないから、勝手に入るのは気が引けた。この空白の十年間、彼がどんなふうに暮らしていたのかを、知りたくないような気もしていた。

 だけどもう、やむを得ない。キーリングについている鍵は二つ。小さいほうが、店舗のシャッターのものだろう。

 ひとまずは、シャッターの鍵穴に鍵を挿す。カチリと音がしたのをたしかめてから、把手に指をかけた。