マイノリティは常に説明を求められる

”マイノリティは常に説明を求められる”、というのはよく言われることだ。マジョリティがかけなくていいコストを求められ続ける現状について、もう一度考える必要があると思う。

『死にそうだけど生きてます』(著:ヒオカ/CCCメディアハウス)

また今回改めて感じたのは、一見同じ属性でも、置かれている立場や意見は全く異なるということだ。同じ「障害者」でも、身体障害、知的障害、精神障害、内部障害※では事情が全く違ってくるだろう。

※内部障害
内部障害とは、体の内部に障害があることをいいます。外見からは分からないのですが、疲れやすかったり、トイレに不自由したり、タバコの煙で苦しくなったりするなど、周囲の方の理解と配慮を必要とする障害です。 
東京都福祉保健局ホームページより引用

心臓機能障害、腎臓機能障害、呼吸器機能障害などがある。 

障害があっても大抵譲ってもらえるという人もいれば、いつも気づいてもらえず、譲ってもらえない、優先席に座っていると注意される、という人もいるだろう。自分がハンデがあっても支障なく利用できていたとしても、他のひとはそうではないかもしれない、という視点も必要なのかもしれない。

また、「現実としてお年寄りが立っているのに若い人が座っている」、「優先席に座っている若い人がいたら注意することも必要」という声もあったが、若い人にだって障害や病気はある。その健康だと思われた若者の中にも、どんな事情があるかなんて見かけでは分からない。若い人というだけで、健康という先入観が生まれてしまう。人間とは無自覚のうちに、バイアスがかかってしまう生き物なのだ。”本当に必要な人のために”なんて言うけれど、それは自分の尺度だけではかったものだ。まず、自分の判断力を過信しないことが大事で、そもそも自分にその判断する力などないと思うくらいがちょうどいいのだと思う。