想像力の重要性

先日、あるYouTubeを見ていたら、「想像力を求めるって暴力」というワードが出てきた。私は日頃から「無いものにされる痛みに想像力を」と言っているし、何かと想像力の重要性について書いてきたように思う。

だから「想像力を求めるって暴力」という言葉を聞いた時、正直まごついた。でも、少し考えたあと、確かにそうかもしれない、と思った。

先ほどの優先席の話に戻るが、例えば若く健康そうな人が座っているとして、もしかしたら**かもしれない、**かもしれない、と想像力を持つとはどういうことか。限られた情報から、悟る、察知する、推し量る、行間を読む、空気を読む。それができるかどうかはスキル(後天的に身に付けられる能力)だけではなく、性質に依るところも大きいだろう。

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人間の性格や行動というのは、後天的な努力でどうとでもなると思われがちだが、実は生まれ持った性質の部分も大きい。そして人は自分が持っているものを持っていない人に対して厳しい目でみがちだ。運動神経がいい人はこれくらいなら普通にできると思うレベルが高いだろうし、勉強ができる人は簡単な問題が分からず投げ出す人になんでこれくらいもできないんだ、粘る力が足りないと思うだろう。努力の前に生まれ持った性質の部分で大きく差がついていることに、なかなか気づけないものなのだ。

そう思うと、想像力というのも、努力次第でどうとでもなるものではなく、本人がどうしようもない部分も大きいのではないかと思ったりした。想像力が足りない!と非難する側もまた、想像力が足りないのかもしれない。

とはいえ、優先席が象徴的なように、人と人が共生していくためには、自分の引き出しにある材料だけで人を決めつけず、もしかしたら、という余白を持っておくことは必要なことだ。人が持つ様々な事情のカードを増やすことで、先入観をゆるめ、思い遣れる余裕が生まれるかもしれない。そういった意味で、見えづらい困難を可視化していくことは意味があるはずだ。きっと「想像力が持てない」にも色々あって、単純に「知らないだけ」というのも大きいのだと思う。想像力が性質とスキルで出来ているなら、スキルの部分は「知ること」で育てることができると思うから。