若い頃の自分すら説得できる気がしない

自分という存在を忌み嫌う時間が減ったのは、加齢による集中力の低下で、自身への執着がもたなくなってきたからだ、といくつかの自著に記した。いま気に病むことがないわけではないが、「まあ、いいか」までの距離は年々短くなっている。物忘れの一環だと思う。

私はこれを、ある種の自己受容と認識していた。だとするならば、エネルギーに満ち溢れた若いうちに自己を受容するのは困難を極めることになる。力の喪失が新たな獲得の種になるのは美しい物語ではあるものの、もうちょっとこう、「いますぐできる」みたいな方法はないのだろうか。

若い頃、微笑みを湛えた年配者に「年をとればわかるわよ」と言われると、私は白けたものだった。同じことを若者にしたくない。偉そうなことは言いたくないけれど、役に立てるなら、なにかしたい。だが、それが難しい。若い頃の自分すら説得できる気がしない。

たとえば、「他者より優れていなくても、あなたの生きる価値は棄損されない」という、私の五臓六腑に染みわたる言葉をヤング・スーに聞かせても「まあ、そうなんでしょうね。きれいごととしては」と鼻白むだろう。呆れ顔のヤング・スーの手を握り、「世の中はあなたを傷つけないようにはデザインされていない現実と、あなたの根源的な価値を下げることは誰にもできないという事実は同時に成立するのよ」と熱弁しても、ポカンとされるだけだろうし。