「天下静謐」をすでに果たしていた

西国についてみると、中国地方ではこの時期羽柴秀吉が備中高松城(岡山市)で、毛利輝元(毛利元就の嫡孫)・吉川元春(元就の次男)・小早川隆景(元就の三男)らの毛利軍と対陣していた。そして秀吉の要請で信長自身が出馬する意思を固め、明智光秀・細川忠興(細川藤孝の長男)・池田恒興らに先陣を命じたので、降伏に追い込むのは時間の問題であった。

四国では長宗我部元親と対立していたが、まさに六月二日には信長の三男信孝を総大将とする渡海軍が派遣される予定になっており、四国平定は目前であった。

九州では豊後の大友宗麟・義統父子と薩摩の島津義久との間で抗争が続いていたが、劣勢であった大友氏は信長に近づき、信長は天正七年(一五七九)十一月七日付の義統宛朱印状で、周防・長門の両国を与えると約束した。

この時点では両国は毛利領であったため、大友氏に毛利氏の背後を突かせ、毛利氏滅亡後に宛行(あてが)うとの約束だったことになる。そのためにも「豊薩無事(ほうさつぶじ)」、つまり大友・島津両氏の和睦が必要になり、それを調停すべく、天正八年八月に島津氏、九月には大友氏に、それぞれその意向を伝えた。

翌天正九年六月に島津義久が大友氏との長年の私恨を棄てて和睦案を受諾し、大友氏もまた受諾したことで「豊薩無事」が成立した。

信長はすでに天正八年(一五八〇)閏三月に勅命講和によって本願寺と和睦し、翌四月に顕如が大坂から退去したことで、畿内を中心とする「天下静謐(せいひつ)」を実現していた。

天下人としての歩みを着実に進め、これまでみてきたような諸国の情勢からすれば、信長による「天下統一」は実現間近になっていたといえよう。そのような歴史の流れが、天正十年六月二日未明の本能寺の変によって突然断ち切られたのであるから、その衝撃は大きかった。