「天下統一」が十分視野に入る状況に
この当時の信長は、いわゆる「天下統一」も十分視野に入る状況に至っていた。
関東方面については、天正三年(一五七五)に信忠に家督を譲った同じ十一月二十八日付で、関東・南陸奥の大名・国衆らに朱印状を送り、長篠合戦での勝利を知らせ、いずれ武田攻めを行なうので、その際には味方をするよう求めていた。
いずれもほぼ同内容で、現在、常陸の佐竹義重、陸奥の田村清顕、下野の小山秀綱宛の三点が知られている。こうして、常陸の佐竹氏や北関東の国衆たちは、小田原の北条氏に対抗するために、比較的早くから信長に好(よし)みを通ずることになった。
また、北条氏政も武田氏に対抗するため、天正七年(一五七九)九月には家康と同盟を結ぶようになり、さらに、翌天正八年三月には笠原康明を使者として信長のもとに派遣し、服属の意思を表わしたのであった。
そして今回、甲斐の武田氏を滅ぼしたのであるから、残るは柴田勝家と対戦していた越後の上杉景勝のみという状況となっていた。