つぎつぎと明らかになる新事情

なお、最近『乙夜之書物(いつやのかきもの)』(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)の本能寺の変にかかわる記事が見直され、つぎつぎと新たな事情が明らかになって注目された(萩原大輔『異聞 本能寺の変』)。

すなわち、『信長公記』では光秀が重臣たちに謀叛の決意を告げたのは一日の夜だったといわれているが、ここでは重臣の斎藤利三が昼頃に兵を率いて亀山城に到着した際に告げられたといわれており、昼だったということになる。

また、夜中に桂川の河原に到着したところで光秀は兵粮を使うように命じ、その際、本能寺に取りかかるということを物頭が軍勢に告げたといわれており、そうなると本城惣右衛門も、この時点では信長を討つと知ったことになる。

さらに、とくに注目されているのは、実際に本能寺に向かったのは斎藤利三らの二千余騎であり、光秀自身は本能寺には向かわず、 鳥羽(京都市南区・伏見区)で待機していたといわれていることである。

これらの情報は、斎藤利三の三男で本能寺の変にもかかわっていた利宗が、甥で加賀藩士の井上清左衛門に語った内容であるといわれており、それなりに信憑性があるとみられている。