まさか敵は本能寺とは

明智光秀が家康の接待役を解かれ、中国筋への出陣を命ぜられて、坂本(滋賀県大津市)を経て丹波亀山城(京都府亀岡市)に入ったのは天正十年(一五八二)五月二十六日のことであった。

『信長公記』によれば、翌二十七日に愛宕山(京都市右京区)へ参詣し、太郎坊の御前で二、三度くじを取ったという。一宿参籠して、二十八日には西坊で連歌の会を催した。

その発句は光秀で、「ときは今あめが下知る五月哉(さつきかな)」と詠み、西坊(行祐)と里村紹巴らが続いて百韻(一〇〇句を連ねたもの)を神前に籠め置いた。

六月一日夜(最近、昼であった可能性が出てきた)に重臣らに謀叛の決意を語り、亀山から中国筋の三草越えには向かわず、東の老の山へ上り、それを左に下って桂川を越え、二日の明け方近くに京都に入った。

後年の回想録「本城惣右衛門覚書」によれば、従軍していた惣右衛門はなぜ京都に向かったのか不審に思い、あるいは上洛中の家康を討つためかと思ったといっており、まさか敵は本能寺とは思いもしなかったという。

わずか二、三十人の小姓衆を連れただけで本能寺に滞在していた信長は抗するべくもなく、四九歳で非業の最期を遂げたのであった。たまたま妙覚寺にいた嫡男信忠も、二条御所に移って抵抗するが、やはり無勢のために自刃して果てた。