「天下統一」直前まで辿りついていた織田信長が非業の最期を遂げた本能寺の変。その新事実とは?(提供:PhotoAC)
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第28回では、信長(岡田准一)が本能寺へ入ったという知らせを受けて、堺へ向かう家康。堺の商人たちと手を結び、家康は信長を討った後の体制も盤石に整えていたが、そこにお市(北川景子)が現れて――といった話が展開します。

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。第4回は「つぎつぎと明らかになる”本能寺の変”の新事実」についてです。

官職について答えなかった信長

武田氏を滅亡させて凱旋した信長に対して、朝廷はさっそくそれを祝う勅使を派遣した。

そして天正十年(一五八二)四月二十五日には武家伝奏(ぶけてんそう。武家の奏請を天皇・上皇に取り次ぐ公家の役職)の勧修寺晴豊が、信長側近で所司代の村井貞勝のもとを訪れ、「三職推任(さんしきすいにん)」について話し合った。すなわち、安土に勅使を派遣し、信長を太政大臣・関白・将軍のいずれかの官職に推任しようとしたのである。

信長は四年前の天正六年(一五七八)に、正二位の位階はそのままに、官職については右大臣・右大将を辞して無官であった。朝廷としては最大の実力者である信長を、何とか朝廷の官職体系の中に取り込もうとして、前年には左大臣に推任したのであるが、これも信長は断っていた。

五月三日に勅使の女房衆が安土城に派遣され、晴豊もこれに付き添った。信長は勅使に会うことを避けたが、晴豊のたっての願いで六日に面会はしたものの、三職について答えることはなかった。