学級崩壊と寝耳に水のがん宣告
4歳上の夫ががんで余命40日と宣告された。私はためらうことなく、34年続けてきた教師の仕事を辞め、看病に専念することに。
今まで家庭より仕事を優先してきた。授業やテストの準備、成績処理など、山ほどある仕事をこなすのに精一杯で、夫を思いやることがなかった。寝耳に水のステージIVの宣告で我に返り、56歳で中途退職を決めたのは夫への贖罪の気持ちがあったからだ。
それに、当時勤めていた中学校は、学級崩壊の嵐が吹き荒れていた。生徒たちは音楽教師である私にも、「てめえ!」「死ね!」と、胸を突き刺す言葉を投げつけてくる。
ある日、自宅の郵便受けに切手のない手紙が放り込まれていた。「おまえは最低の教師だ」。そんな言葉から始まる手紙を最後まで読むことはできなかった。また、音楽教室が荒らされたことも。壁に貼られた音楽家の肖像画が破られ、床にはゴミがまき散らされていた。
折れそうな心を支えたのは、まじめに仕事をしてきたという誇りだった。しかし、何度辞めたいと思ったことか。夫の看病は、退職の大義になる。あと4年で定年だったが、未練はなかった。
6ヵ月の闘病期間を経て、夫は定年目前の60歳で旅立った。退職後は悠々自適に暮らすはずだったのに。人生何があるかわからない。やりたいことはやれる時にやっておかなくては……。耳元で誰かが囁く。
そんな折、たまたま書店で『日本語ジャーナル』という雑誌の表紙が目にとまった。「日本語教師になって世界に羽ばたこう」という文字が躍っている。気がつけば、その雑誌で紹介されていた日本語教師養成講座の門を叩いていた。入学金はなんと30万円。
急な成り行きに娘は驚いていたが、一番驚いたのは自分自身だ。二度と教師などするまいと固く誓ったはずなのに。