堺から宇治田原へ

家康は堺を遊覧した後、大坂の飯盛山あたりで本能寺の事件を耳にします。

土地勘がなかった家康一行を導いたのは、織田信長の側近だった長谷川秀一でした。

彼は旧知の山口甚介・光広父子に連絡を取り、宇治田原にある甚介の居館(山口城、宇治田原城)まで家康一行を送り届けます。

なお、秀一は秀吉に仕えて越前・東郷(福井県福井市)15万石を領しますが、後継ぎがなく、文禄3年(1594年)に彼が病没すると長谷川家は絶えました。

その宇治田原まで家康一行と一緒だったのが、穴山梅雪です。おそらく彼とその従者たちはここで家康と別れ、土民に襲撃されて命を落としました。

山口甚介の名は信頼性の高い文書(『禅定寺文書』)からすると「秀康」のようです。彼は元々この地の有力者で、京都の公家や足利義昭に仕えた後に織田信長の配下となる、という経歴を有していました。

光広というのは、甚介の娘婿です。実父が、今の滋賀県甲賀市にあった小川城の多羅尾光俊。ドラマではきたろうさんが光俊を演じていらっしゃいましたね。