一族のその後

さて、光広は山口甚介の娘婿ですが、甚介には実子もいました。これが山口宗永です。

ぼくは戒名からして、宗永は「むねなが」ではなく、法諱の「そうえい」(武田信玄の「しんげん」、上杉謙信の「けんしん」に同じ)だと解釈していて、先ず間違いない、と思っているのですが、世の中には受け入れられていない印象があります(不徳の致すところか…)。

おそらく彼の名は「正弘」。通称は玄蕃。

宗永の生涯を簡単に解説しておくと、彼は秀吉に仕え、小早川秀秋の付け家老に指名されました。秀秋は朝鮮の戦いでの不始末を咎められ、博多35万石から越前北ノ庄15万石に左遷されますが、このとき宗永は独立大名となり、加賀・大聖寺6万石を得ます。

ところが関ヶ原の戦いの時に西軍についたため、東軍に属した前田利長の大軍に攻められ、大聖寺城はほぼ一日で落城、宗永も自害に追い込まれました。

宗永の嫡男・修弘は父と運命を共にしますが、次男の弘定は生き延び、大坂の秀頼に仕えます。木村重成の妹を妻に迎えた彼は、重成の配下に属して大坂の陣を戦いました。

しかし夏の陣の若江の戦いで、井伊直孝の部隊に討ち取られました。直孝のお父さんは、ドラマでは板垣李光人さんが演じている井伊直政ですね。

弘定の墓は八尾市幸町にあり、木村重成の左横で眠っています。それから、山口氏の一流は松江の松平家家来として存続したようで、ここから、ミッドウェー海戦で有名な山口多聞提督が出ています。


本郷先生が解説!「天下人・徳川家康の岐路となった4つの合戦場跡を辿る 2日間(10月30日・31日)」

当連載の本郷和人先生の解説とともに、徳川家康の運命を左右した”4つの合戦場跡”を辿る日本史好き・大河ドラマ好きにはたまらない豪華ツアーがこの秋、開催決定!

1「桶狭間」松平元康時代の家康が天下人への道のりの転機になった戦い
《ここを聞きたい!》信長の奇襲は本当にあったのか?
2「長篠・設楽原」:織田・徳川連合軍が武田勝頼を撃破した戦い
《ここを聞きたい!》三段撃ちは戦場を見る限りあり得ない?
3「小牧・長久手」:羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い
《ここを聞きたい!》なぜ秀吉の大軍に家康は勝利できたのか?
4「関ヶ原」:家康の東軍と石田三成ら西軍が激突した「天下分け目の戦い」
《ここを聞きたい!》その勝敗は地形と大きな関係があったって本当?

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