秀吉の三河侵攻作戦

小牧山城は、信長が斎藤氏を滅ぼして岐阜城へ移るまでのわずかな期間であったが、居城として築城した石垣造りの堅牢な城郭であった。また、兵力差が大きいとはいえ、籠城軍を攻撃するのは味方の犠牲も大きくなることを覚悟する必要があった。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

そこで秀吉は小牧山城を力攻めにするのではなく、まずは家康方の軍勢を小牧山城に釘付けにし、その間に家康の本拠岡崎城を突いて後方から攪乱するという戦法を採ることにした。そのための具体的な方策が、別働隊による三河侵攻という作戦であった。

秀吉はこの岡崎城を突こうとする三河侵攻作戦を、四月六日に決行した。

四月八日付丹羽長秀宛秀吉書状などによれば、甥の三好信吉(のちの豊臣秀次)を総大将とし、先陣は池田恒興・森長可の部隊で、軍監として堀秀政・長谷川秀一を付け、およそ二万四、五千という軍勢であった。 九鬼義隆の水軍も三河に差し遣わしたといわれており、かなり大がかりな作戦だったことがわかる。

この秀吉方の動きを察知した家康は、小牧山城の留主部隊として酒井忠次・石川数正・本多忠勝らを残し、信雄とともに四月八日の夜には小幡城(名古屋市守山区)に入った。

先の丹羽長秀宛秀吉書状では、別働隊が小幡城の二の丸まで攻め入り、首一〇〇余りを討ち取ったといっているので、別働隊が先へ進んだ後、家康方が奪い返して入城したことになる。

そして翌九日早朝、家康方は榊原康政・大須賀康高らを先陣として、戦線が伸びた別働隊最後尾の三好隊を急襲した。